「日本100名城」という言葉は城郭マニア、ファンでなくても一度は耳にしたことがあるはず。今回はそれらの中でも水運と防御力に優れ、「日本三大水城」と呼ばれる香川県の讃岐高松城、愛媛県の伊予今治城、大分県の豊前中津城をご紹介。さらに山上高所に立地する堅固さから「日本三大山城」と呼ばれた岐阜県の美濃岩村城、奈良県の大和高取城、岡山県の備中松山城を目にする、ニッチでマニアックな旅へとご案内します。
高松、今治、中津、築城の名人たちが築いた美しき日本三大水城
日本最初にして最大!三大水城の筆頭と言われる讃岐の「高松城」
香川県高松市の「高松城」。ここは豊臣秀吉による四国制圧の後、瀬戸内海航路の要衝であった高松の海辺に、生駒親正が築いた海城です。現在目にする事ができる遺構は、江戸時代初期に高松に移封された松平頼重によって改修されたものですが、近世城郭における本格的な海城と言われ、日本最初、そして最大の城と言われています。地元では「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」とも謡われ、その壮大さは日本三大水城の筆頭ともされています。
※写真は高松城の艮(うしとら)櫓
高松城の縄張りは、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置されていて、3重の堀が廻らされていました。 かつては城壁が瀬戸内海に面し、全ての堀に海水が引きこまれていて、城内には軍船が出入りしていたと伝えられています。
その後、残念ながら明治時代の廃城令で四国最大規模とされた天守は解体され、周辺は埋め立てられ、城跡は玉藻公園として整備されました。城の遺構は北の丸の北端、瀬戸内海を監視する月見櫓や東ノ丸の艮(うしとら)櫓、水手御門、渡櫓などが現存していて、いずれも国の重要文化財に指定されています。
※写真は高松城の本丸、天守台と内堀。天守台には初代藩主、松平頼重を祀る玉藻廟が建立されています。堀には現在も海水が引きこまれ、養殖の鯛が放流されています。
名称:高松城
住所:香川県高松市玉藻町2-1
アクセス:JR予讃線、高徳線「高松駅」から徒歩約3分
参考リンク:高松城公式ウェブサイト
築城の名人、藤堂高虎が築いた日本屈指の海城「伊予今治城」
※写真は今治城の模擬天守と山里櫓
愛媛県今治市の「今治城」。ここは築城の名人と言われた武将、藤堂高虎が、高松と並ぶ瀬戸内海の要衝、今治の海辺に築いた城です。城は慶長9年(1604年)に完成したとされ、形式は本丸、二の丸を中心にした輪郭式の平城、城の周囲には3重の堀が廻らされていました。瀬戸内海に面する今治城の堀には海水が引きこまれ、城内に舟入(港)を備えた日本屈指の海城です。ちなみに今治城の天守は、日本最初の層塔型天守であったとも言われています。
この城も明治維新で廃城とされ、ほとんどの建築物が破却されましたが、石垣と内堀は江戸時代の姿をそのまま残しています。現在目にする事ができる天守は1980年に再建されたものとなっていて、以降、御金櫓、山里櫓、鉄(くろがね)御門、多聞櫓などが再建されました。今治城は夜間のライトアップが人気で、堀の水面に天守や石垣が映り込む幻想的な光景を目にする事ができます。
※写真は今治城の模擬天守と山里櫓(別角度から)
名称:今治城
住所:愛媛県今治市通町3-1-3
アクセス:JR予讃線「今治駅」から瀬戸内バスで約10分、「今治城前」徒歩すぐ
参考リンク:今治城・今治市公式ウェブサイト
名軍師・黒田官兵衛が築いた九州、川河口の堅城「豊前中津城」
※写真は中津城の模擬天守と櫓
大分県中津市の「中津城」。ここは豊臣秀吉の名軍師として知られる黒田官兵衛(黒田如水)によって築かれた城であり、細川忠興が完成させたと言われています。周防灘へと続く山国川(中津川)の河口付近に築かれた梯郭式の平城であり、堀には河口の水が引きこまれ、高松城や今治城と並ぶ水城と言われます。城は本丸を中心に北に二の丸、南に三の丸が配置され、城域が三角形を成すことから扇城(せんじょう)とも呼ばれ、22基の櫓、8棟の門、総構えには6箇所の虎口があったとされています。
中津城の本丸の石垣は、黒田氏時代のものを細川氏が拡張したと思わえる継ぎ目が見られ、黒田氏が築いた石垣は天正16年(1588年)の普請と言われ、現存するものとしては九州最古とされています。江戸時代中期には奥平氏が中津藩主となり、その後の明治維新に至るまでの間、奥平家の居城となりました。1964年には旧藩主の奥平家が中心となり、市民の寄付の力もあり、模擬天守(奥平家歴史資料館)が建てられています。
※写真は復元された中津城の模擬天守
名称:中津城
住所:大分県中津市二ノ丁1273
アクセス:JR日豊本線「中津駅」から徒歩約15分
参考リンク:中津城公式ホームページ
恵那市、高取町、高梁市、一度は攻めてみたくなる日本三大山城
江戸時代、諸藩の居城の中でも最高所に位置していた「美濃岩村城」
※写真は岐阜県恵那市にある「美濃岩村城跡」。六段壁の異名を持つ要害の山城でもあります
「美濃岩村城」は岐阜県恵那市岩村町の城山山上にある山城で、江戸時代には岩村藩の藩庁とされました。ここは諸藩の居城の中でも最も高い海抜717mに位置し、霧が多く発生する場所であった事から「霧ヶ城」とも呼ばれ、「女城主おつやの方」の悲哀の物語でも知られる名城です。
この岩村城が名城と言われる由縁はおよそ700年に及ぶ歴史にあります。かつての鎌倉時代の文治元年(1185年)、源頼朝の家臣であった遠山景朝がこの地の地頭に任ぜられ、岩村城を造ります。そして戦国時代の末期には、遠山氏は甲斐の武田家に従いますが、元亀元年(1570年)には織田信長の武将、明智光秀が武田方を駆逐します(上村合戦)。
※写真は1990年に復元された美濃岩村城の太鼓櫓
そして織田信長は5男の坊丸を遠山氏の養子として城に入れますが、坊丸がまだ幼少であったため、信長の叔母であるおつやの方を後見としました。そしてその後、元亀3年(1572年)には武田方の武将、秋山信友が岩村城に攻め寄せますが、城を落とすには至らず、秋山信友はおつやの方を妻に迎える事で和睦し、岩村城を開城させます(岩村城の戦い)。
さらに天正3年(1575年)には武田家の弱体化に乗じ、織田信長が岩村城を攻めます。この時は5ヶ月にわたる攻防戦の末に岩村城は陥落、秋山信友とおつやの方は岐阜で処刑されました。その後、岩村城は織田家臣の河尻秀隆、団忠正、森長可と城主が入れ替わり、近代城郭へと変貌していきました。関ヶ原の戦いの後には徳川家の松平家乗が入城し、山上の居館を麓に移して城下町を整備。そして江戸時代には丹羽氏、大給松平氏の居城とされ、明治時代の廃城令によってこの城は解体され、石垣だけが残される事となりました。
※写真は美濃岩村城の復元絵図
日本三大山城の1つとされる岩村城は梯郭式山城で、本丸の外に二の丸、西に出丸、二の丸の外に三の丸が配され、本丸には二重櫓が2基あったと言われています。現在は曲輪、高石垣、井戸などの遺構が残るだけとなってしまいましたが、岐阜県指定の史跡となっています。昭和47年(1972年)には麓の居館跡に歴史資料館が開館し、平成2年(1990年)には表御門、平重門、太鼓櫓が復元されています。
名称:美濃岩村城
住所:岐阜県恵那市岩村町字城山
アクセス:明知鉄道「岩村駅」から歴史資料館(居館跡)までは徒歩約20分、本丸までは約40分
参考リンク:恵那市観光協会公式サイト「岩村城跡」
国内最大の壮大なスケールと言われた名山城「大和高取城」
※写真は奈良県高市郡高取町にある大和高取城の天守台
「大和高取城」は奈良県高市郡高取町、高取山の山上にある山城で、江戸時代には高取藩の藩庁とされてきました。当時の山城の多くは山上に城塞を築き、それとは別で麓に居館を築き、日常生活は麓で行なう一方、敵が来襲した際には山上の城塞に籠もるといったスタイルでした。しかし、この高取城は城下から4kmほど離れた標高583mの山上に藩主の居館や政庁、侍屋敷群までをも築き、藩政をこの山上で行っていたとされます。ここは多くの曲輪を連ねた連郭式の壮大な山城で、白漆喰塗りの天守や、30棟近い櫓がこの周辺に林立していたとされます。
大和高取城の歴史は南北朝時代に越智氏が築城した城塁に始まると言われ、戦国時代には侵攻して来た一向一揆軍の猛攻にも耐え抜いています(天文の錯乱)。その後は大和の守護であった筒井順慶が、支城の1つとして本格的な城塞へ改築したとされていますが、天正13年(1585年)には豊臣秀吉の弟であった豊臣秀長が郡山へと入り、高取城には秀長の重臣だった本多利久が入城しました。本多利久は本丸に3層の天守と小天守、二の丸に御殿を築き、3重櫓が17基ほども建ち並ぶ壮大な城塞をこの山上に完成させ、麓には城下町を整備しています。
※写真は大和高取城の太鼓御櫓台と新御櫓台
また、本多利久の子、本多俊政は関ヶ原の戦いで東軍側へつき、高取藩の初代藩主になりましたが、後継ぎがなかった本多氏は廃絶となってしまい、代わった植村氏が高取藩主となって明治維新を迎えています。そんな高取城は明治時代の廃城令を機に放棄されてしまい、天守をはじめとした建造物の多くは人里離れたこの場所で自然倒壊したとされています。
日本三大山城の1つとされる高取城は、ニノ門より内、侍屋敷が並んだ「城内」と、釘抜門より内の城郭や居館が建っていた「郭内」に分けられ、多くの曲輪が連なった様は国内最大のスケールだったと言われます。現在も石垣などの遺構はほぼ完全な状態で残っていて、貴重な城郭資料として国の史跡にも指定されています。
※写真は高取城の国見櫓からの眺望
名称:大和高取城
住所:奈良県高市郡高取町高取
アクセス:近鉄電車吉野線「壺阪山駅」より奈良交通バス「壺阪寺前」徒歩約50分
参考リンク:高取町観光ガイド「高取城」
雲海に浮かび上がる天空の山城。今も幻想的な美しさを誇る「備中松山城」
※写真は雲海の中に浮かび上がる、臥牛山上の備中松山城
「備中松山城」は岡山県高梁市の臥牛山上にそびえる山城で、現存天守を持つ城としては日本最高所(標高430m)に位置しています。この城は雲海の中に浮かび上がる幻想的な美しさが話題となっていますが、臥牛山の一峰、小松山の山頂に本丸、二の丸、三の丸が階段状に配されていて、現存天守と二重櫓などは国の重要文化財にもなっています。石垣、門、土塀などが当時のままに残され、天守や櫓なども目にする事ができるという点では、非常に貴重な城郭遺産と言えるものになっています。
この城は鎌倉時代に現在の高梁市有漢町の地頭であった秋庭氏が、臥牛山の一峰、大松山に城を築いた事を起源とし、現在残されている遺構は江戸時代、備中松山藩主であった水谷勝宗が築造したものとされます。この地は昔から山陽と山陰を結ぶ要地であったため、戦国時代には三村氏、庄氏、毛利氏などの間で激しい争奪戦が繰り広げられ、その度に城主の交代が起こっています。江戸時代には池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と藩主が入れ替わり、最後の藩主、板倉氏のもとで明治維新を迎えています。
※写真は備中松山城へと続く山道
また、明治時代の廃城令によって麓の御殿、御根小屋は取り壊されましたが、山上にあった建物群は解体されずにそのまま残り、昭和16年(1941年)に天守と二重櫓などが当時の国宝(重文)に指定されました。また、平成6年(1994年)からは本丸の整備が行われ、天守、平櫓、御門などが修復、復元されて現在に至っています。
※写真は山上にある備中松山城の本丸。本丸には南御門をはじめ、五の平櫓、六の平櫓などが復元され、奥には2層2階の複合式望楼型の天守が聳え、白い漆喰の壁と黒い腰板の美しいコントラストを今も目にする事ができます。
名称:備中松山城(高梁城)
住所:岡山県高梁市内山下
アクセス:JR伯備線「備中高梁駅」から乗り合いタクシー(1日4往復、要予約)。「ふいご峠」から徒歩約20分
開城時間:4月~9月は9:00~17:30、10月~3月は9:00~16:30
入城料:大人500円、小中学生200円
参考リンク:高梁市公式ホームページ「備中松山城」
※日本三大山城と呼ばれる各城は人里離れた山上に位置するためアクセスは慎重に。山道に迷ったり怪我をする事がないよう、万が一のリスクに対する備えを行った上で歩く事をおすすめします。